シャルトルへはモンパルナスからTERで1時間15分、 アミアンへはパリ北駅からやはり1時間10分程である。 いづれの大聖堂も歴史的時間上に忽然と立ち現れて、来訪者に自身の存在を問いかけるかの感がある。たしかユイスマンスは「ロマネスク建築は魂の屈曲を示すが、ゴシック建築はその伸張の、発揚の芸術なのだ」と語ったが、果して何が、その「魂の伸張」を強いる潜在的な力となり、ゴシック大聖堂へと結実せしめたのだろうか。
 ヤンツェンはステンドグラスの神秘の光が「いわばこの建築を別の体に移し換える」 (「ゴシックの芸術」前川訳)とし、ディアファナスな壁体への変換を指摘した。ゼーデルマイヤは「光への衝動は、美的理想なのではなく」「世の終わりに来たるべき永遠の天の教会堂の一時的[現世的]で可視的な模造」(「大聖堂の生成」前川・黒岩訳)だと言った。が、かかる解釈には「魂の伸張」を強

いる桁外れな過剰(或いは欠如)の認識が伴わず、飛梁を連ねた怪物のような大聖堂を出現させる必然を欠く。ラファエロが「尖頭アーチは加重に弱いだけでなく、円という完全な形を好むわれわれの眼には優美さに欠ける」(「教皇レオ10世聖下殿へ」小佐野訳) と語る美意識を葬り去るに足る「起源」を、問わざるを得ないのである。
 ヘーゲルは「キリスト教の精神とその運命」(細谷・岡崎訳)に、イエスが「その神を仰ぎみることは、彼がたえまなく世界と衝突する一歩一歩であり、彼の世界逃避であった」そしてイエスの死後「神を求める打ち消しがたい衝動が充たされずに残」ったと書いた。正にその衝動なしにゴシック大聖堂は成立せず「魂の伸張」の痕跡も残らなかったのではあるまいか。by びれいぽいんと店主

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