ベルニーニが「アポロンとダフネ」において、大理石から掘り起こしたミュートス(神話)は、如何なる「出来事」として捉えられるべきか? この問いは「事件」としての「アポロンとダフネ」を「図」とする、「地」としての「平常」の在処の探索へと私たちを導く。
オウィディウスは「かれの胸にこの恋の火を点じたのは、けっして気まぐれな偶然ではなく、クピドの
はげしい怒りであった」(「転身物語」田中前田訳)と書いて必然を強調した。しかしその必然の起点は自由意思ではなく、勇猛な男が女に迫る原始的自然(=平常)に近い。
ヘーゲルは「大論理学」に「単に生きているにすぎないような諸々の自然は、他の低次の物と同様に、単なる客観として、如何なる運命をももたない」(武市訳)と書いて「運命」が人間の個別的普遍性において捉えられるべき事を逆説的に表現した。一方、シラーは「崇高につ
いて」において、「自然の必然性」に抗して「運命」への隷属に敢然と立ち向かう姿に人間の自由意思と尊厳を認め、そこに「崇高」を見た。そして今、私たちはダフネの絶望と死を賭した悲壮な祈りの前に立っている。
フーコーがたかだか18世紀の発明にすぎないと喝破した近代的「人間」は、世界史が宗教的、政治的、経済的各位相を客観化し制度化させる過程で、
経済的-市場社会的位相に相関的な地平をその「平常」の了解の基盤とした。「運命」のリアリズムも古代のミュートスの次元から小市民的な利害と内面への関心へと自由意思の内部で矮小化した。かかる歴史的現在を生きる私たちに、果たして喪われたミュートスの世界と叙事詩的な感銘は、掘り起こし得るのだろうか?
by びれいぽいんと店主
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