フランシス・ベイコンはピカソと並ぶ20世紀最大の画家と言われながら、未だその絵は鑑賞者の居心地の良さを奪うかのようなイメージを発し続けている。見る者と絵画との間に、ベイコンの作品は「出来事」を発生させる。それは密教的とでも言うべき経験かもしれない。
ベイコンの描く、強く歪められた身体は美しい、だろうか。カフカの「変身」においてグレゴール・ザムザが「虫」を生きたように、ベイコンの身体は「人間」を生きている。
ベイコンの絵は、鑑賞者が、既定の解釈を知識として携え、安全地帯に居ながら作品を受容する、その特権的な視点の放棄を迫るかのようでもある。
「ある絵は神経をじかに刺激し、またある絵は見る人に長たらしい物語を伝えて頭で考えさせるのはなぜか」とベイコンは問いかけ、自分の作品は前者だと言う。
( INTERVIEWS WITH FRANCIS BACON by David Sylvester 小林等訳,筑摩書房) そして「ひとたび物語ができると、絵自体のもつ可能性が切り捨てられてしまう」(同)と語る。では「絵自体のもつ可能性」とは何か?
「現代人は自分がたまたま存在しているだけのつまらないものだと気づいている」(同)「無意味なゲームを最後までやらなくてはならないことも、わかっている」(同)
「画家が画家たりうるためにはゲームを本当に深化させることができなければならない」(同)。だから「作為」をもって神経組織に直接働きかける「リアルな絵」を「偶然性」を媒介としつつ創造し、「絵自体のもつ可能性」を追求する。ベイコンにおいて、描くことは「賭け」なのである。 by びれいぽいんと店主
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