サロメにおけるビアズリーの挿絵群は、原作に忠実な一場面であるよりも、ビアズリー自身がより先鋭化させた幻想の視覚化として存在する。ビアズリーの誇張、註釈、修正を、オスカー・ワイルドは自身の作品への侵犯と感じただろう。ビアズリーが視覚化したものはグロテスクの呵責なき露呈であり、その露呈こそがビアズリーのサロメの本質だった。「僕の目的はただ一つ --グロテスクであること。もし僕がグロテスクでなければ僕は何物でもない」(高儀進訳)とのビアズリーの言葉を、ワイントラウブは「ビアズリー伝」の巻頭に掲げている。
 サロメの挿絵の基点は「エロドの眼」にある。エロド王の暗い眼差しはサロメを捉えて凝固し、欲望は昂じてサロメに舞いを強いる。自身を与える代償行為でもある舞いをサロメは舞う。欲望は増幅され、極限に至る。

 ビアズリーの「踊りの褒美」は「エロドの眼」からの必然で、王が畏れるが故に生かされていたヨカナーンの殺害、即ち王の魂の死として帰結したものだ。地下から突き上げられた黒い腕が支える銀の皿の上の生首は血を滴らせ、その髪をサロメの手が掴んでいる。日常的空間への死の侵入こそが「グロテスク」であるとすれば、ビアズリーは王の魂の死を、欲望の過剰が招来する「グロテスク」の現前化として表現した。
 ラファエロがドムス・アウレアで出会ったグロテスクには空間を支配する権威を相対化する力が潜在した。それは壁画から書物の挿絵へと隔世遺伝してビアズリーを世紀末の一陣の風に変えた。STUDIO誌への一枚のサロメの掲載から5年の命だった。 by びれいぽいんと店主

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