「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える」(「眼と精神」みすず書房)とメルロ=ポンティは言う。彼の脳裡にはセザンヌがいる。私たちもまた、セザンヌの絵の前に立つたびに、その絵から、本質的な問いを投げかけられてきたように思う。
セザンヌ自身、ガスケの証言によれば「空白の画布の前に立つことはほんとうに良いものだ、ほんとうに恐ろしいものだ」と語っている。では、その「恐ろしさ」とは何を意味するのだろう? 「絵画は世界の模倣ではなく、それ自体が世界」なのだ(「知覚の哲学」ちくま学芸文庫)とすれば、「空白の画布」の前に立つたびにセザンヌは、まさに世界へと生起し変化しつつある事物の只中に、身を置いていたのかもしれない。
自らの眼ざしを向けるべき対象世界の内部に自身が存在していることを深く自覚していたセザンヌは、描くべき世界の厚みの内側にありながら「描く」という行為を追い続けた。それがセザンヌにとって「生きる」ということだった。「私は画布を五十センチほど埋めていくために、自分を蝕み、死ぬ思いをする……まあどうだっていい……これが人生だ、私は絵を描きながら死にたいんだ」(「セザンヌ」第二部「彼が私に語ったこと」ガスケ著 岩波文庫)
by びれいぽいんと店主
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