「来るべき書物」の註にモーリス・ブランショは、 ギリシャの予見と聖書における予言との違いを記している。ギリシャでは、霊感による予見力に憑りつかれ、狂気に陥り神憑りになった人間は、 言葉でさえない呟きにより秘密を示す。予言者としての司祭や詩人は、この呟きを解釈し言語化する。従ってギリシャ的な予見は未だ言語ではない。一方、聖書の世界の采女と予言者は別々ではなく、 両者をひとつに体現している、と。
 ジャック・デリダは「哲学における最近の黙示録的語調について」(白井健三郎訳 朝日出版社)において、後者の場合、その言説は「奥義伝授者」もしくは奥義伝授する聖職者=司祭の機能として歴史的に制度化され、カントはそうした神託の声に対抗する理性の声にこそ哲学の使命を見出しながら、実践的道徳法則が「人間自身の理性の完全性」から来るのか「人間に対し人間自身の理性

によって語りかける、他のなにか」から生ずるのかの穿鑿を不問に付したと批判した。カントは男性的理性=ロゴスを去勢化し、存在論的,終末論的,目的論的哲学解釈を容認し、真理の黙示録的構造を受入れたのであると。
 何が問題か?「奥義伝授者」は「神秘と直接的かつ直観的な関係を保っている」と自称して人を引寄せ、誘惑する。秘密の啓示あるいは露呈の保留を伴う言説において「理性の声と神託の声とをわれわれのうちに混ぜ合わせ」理性を堕落させる。自律的根拠を持たない哲学は、語調高く「来たれ」と、たとえばヨハネの黙示録が語る時、その高い語調の齎す宿命の外部を見出し得るのか?外部は内部へと反転するほかないのではないかと、デリダは警鐘を鳴らしたのである。 by びれいぽいんと店主

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