ティツィアーノの「聖なる愛と俗なる愛」における、裸体と着衣の女性の並置には、謎めいた魅惑がある。
謎は読むべき奥行であると同時に、画家が私たちの心を誘引する「美」、それ自体の謎でもある。
 パノフスキーはこの並置を「永遠の倖せと儚い倖せ」「飾りのない美と飾られた美」「天上の愛と世俗の愛」等の対立観念の表現とし、そのポジティヴな側面は裸体の側「純潔と真理と非物質性の原理を示す人物像」に象徴化されている、またその優越性があまりに大きい為、 両者は通俗的な意味で「争う」必要はないと評価した。 (参考:パノフスキー「ティツィアーノの「聖愛と俗愛」の解釈に寄せて」高木昌史訳) しかし両者の優劣に基づく教訓話が画家の目的であった訳ではない。遠景の教会や城も含め、最高善へ至るプロセスの現実態としての並置を描き、絵の奥行には「精神的循環」を暗示させた。

  ルネサンスの新プラトン主義において、美は真実と善を媒介する契機である。 フィチーノは「ピレボス注解(左近司・木村訳、国文社)」に「プラトンは、最高善そのものであり万物の唯一の始源であるものを 三つの言葉で呼んでいる。尺度、調停者、誘引者である。 尺度であるから万物に真実を与える。調停者であるから均整を与え、誘引者であるから美を与える」(第1巻第36章)と書いた。 美に誘引されてこそ人間は「一なる者」(キリスト教との融和を図るべく、フィチーノは「神」と呼称)を志向し得るし、触発された欲望による行動は人間存在の諸相、多様性として現象する。この思想は、画家の意図を平面的な優劣対比から解放し、生きられるべき奥行きを、斯くも魅惑的に描かせた。 by びれいぽいんと店主

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