すでに没後100年を経たマーラーの音楽を久しぶりに聴いてみました。交響曲第9番の第一楽章は、物憂げな心象風景に始まり、それがやがては壮大な心的空間を蘇らせて、日々の生活に追われる私たちに、かつて生きられた内的体験の神秘の記憶を回復させてくれます。その追憶は雄大にして壮麗。しかし、どこまで遠くまで飛翔しようとも、想起された音列が私たちの内在的意識の地平を越え出ることはないのです。
 私たちは喪われた「外部」の痕跡を探したくなる。
 たとえばモーツァルト。あの交響曲第25番の第一楽章冒頭の4小節(上掲)からは、人智の及ばぬ「外部」としての天界から、人間界へと差し向けられた、宿命的な力への畏怖を観取することができます。

 同様に、ベートーヴェンの第9交響曲の第一楽章冒頭2小節目からの第一ヴァイオリンの音型は、天上から降る宿命の光を想起させます。それら「外部」からの力を浴び、受け止め、或いは立ち向かう姿にこそ、人間の雄々しさのひとつの起源があったのかも知れません。
 ところでクレンペラーのモーツァルト25番は、冒頭から緊迫感溢れるただならぬ速度をもって演奏されます(1956年のフィルハーモニアとの演奏もそうだが、ベルリンRIASとの1950年の演奏は殊に)そして、その速度が、59小節目からの第2主題をも緊迫感の影響下におくことになります。そこに「外部」を希求するクレンペラーを見たように私には思えてなりませんでした。
 by びれいぽいんと店主

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