「聖なる愛と俗なる愛」の元々の題名は「ふたごのウェヌス」であり「善と悪との対立を表示しているのではなく、存在の二つのあり方と完全性の二つの段階において示される一なる原理を象徴している」とパノフスキーが書いている(イコノロジー研究,ちくま学芸文庫)
その「一なる原理」をフィチーノは、「神のきわだって優れた現存こそが善なのであり、このような、神から出て万物へ浸透していく、光にも似た作用力こそ美なのである」(プラトーン「饗宴」注釈,国文社)と説き、また「この神の美が、美を渇望する愛を万物の中に生みつけるのである。神が世界を魅惑し、世界もまた神によって魅惑されるのだから、両者の間には不断の牽引力が存在しなければならない」(同)と記している。
フィチーノはアプロディーテとエロースによって、愛の起源としての美を語った。「アプロディーテには二柱
あり、一柱は天使の中に見られるかの知覚のことで、もう一柱は世界霊魂に付与されている生成力」であって、「二柱とも自分に似た従者(エロース)を連れている」「前者は神の美に心を惹かれ」後者は「神の美を物体中に作り出すことに夢中になる」と。
絵画は、クピトに両者の混交を表現させ、また新プラトン主義的世界観の裡にキリスト教的な神を密かに定位し直すと共に、精神的境位の差異自体が美・エロースの媒介する「精神循環」のエレメントであると主張する。それは空間と時間的奥行を支配する「一なる原理」によるルネサンス的文化意志の提示、とも言い得る。美は、宗教画の付帯装飾的位置づけを脱し、人倫生成の動因へと解き放たれたのである。 by びれいぽいんと店主
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