露地ハ只ウキ世の外ノ道ナルニ心ノ塵ヲ何チラスラン(南方録)と詠んだ利休の心には、 侘数奇という言葉に宿る相対立するベクトルを内的に生き抜いた自負があったに違いない。
 数奇という言葉の原義には、数奇者、好く、等、趣味的な嗜好と欲望の肯定があり、一方侘には、世俗の営みと欲望の対象たる富と権力の顕示を排除する心的態度、美意識がある。
 「露地」において「露わ」になるべきは、それぞれの生き様におけるその相克の形相である。フッサール的に言えば、いわゆる自然的態度において捉えられた世界としての現実、利害の鬩ぎ合う世界である浮き世に対し、内省的自己意識に支えられたエポケー(判断中止)遂行の道行きとしての「露地」が存在する。

 「露地」による媒介を通路とするべき侘数奇が、生死の反転を常とする非常の世界に生きる者の交流のチャネルとして、半ば密教的な交感の場を形成し得た素地もそこにあったのでないか。
 待庵の前に立ち、或いは書跡「孤舟載月」を観る時、利休には聖人と化して救われた心は微塵もない、と私には思われる。世俗を生きながら、なお浮き世の外を見つづけ/見られ続ける、跫固な意志を感ずる外ない。そして一期一会はそれぞれの、宿命無くしては成立しないのである。茶ノ湯トハ只湯ヲワカシ茶ヲ立テノムバカリナル本ヲ知ベシ(南方録)

by びれいぽいんと店主

info ! → 無料保険相談受付中! 0120-58-2025