承久の乱へ至る鎌倉武家政権の確立期、時代の転換に関わる政治権力と文化の歪みは幾重にも顕在化していた。新古今歌壇をひきいた後鳥羽上皇と藤原定家との間には王朝文化の精華とも言うべき「和歌」の捉え方に乗り越え難い溝が生じたし、仏教の教理と存在形態を巡っては、天台座主慈円と法然や親鸞との間に仏教の在り方自体の組換えを不可避とする深淵を発生させた。更に後鳥羽上皇と慈円との間では、時代認識における決定的な亀裂が表面化し、それは後鳥羽によって歴史の表層に「承久の乱」として刻印された。
 対立の構図は彼らの個性や人格に由来する恣意的な現象として存在したのではない。日本の歴史自体が軋み捩れながら編まれていく、その同じ必然の過程を 彼らは生きたのである。後鳥羽上皇と定家について言えば、後鳥羽にとって新古今歌壇は、王朝文化の存在の証であり、

和歌は共同体の指導原理でもあった。その精緻な技巧も、文化価値としての共同体を高度に担保する手段であるべきであった。しかし定家は、王朝に内属する文化的表象としての和歌から、より普遍的な言語空間に自立する芸術としての「和歌」へ、即ち三十一文字の定型句において「美」そのものとして屹立する「作品」へと、和歌を垂直に昇華させるべく突き動かされていた。
 明月記の雑事記載の行間から、私たちは象徴主義的作品化への供犠としての「定家」の生を観取する。治承4年、定家は明月記に「紅旗征戎、非吾事」と書いた。そして、その41年後、後鳥羽上皇挙兵直後の承久3年5月21日、定家は後撰集奥書に「紅旗征戎、非吾事」を、再び、書きつけている。by びれいぽいんと店主

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