ダンテはベアトリーチェの愛が自分にないことを知ると、生涯その欠如を生きた。LA DIVINA COMMEDIA 「神曲」を書く事と、自らの地獄を受け入れる事はどこかで通底している。ウェルギリウスに導かれて分け入る「神曲」の世界には、罪と指弾されるべき一事をもって、地獄に堕とされ呻吟する人々の存在がある。そうした人間の命運を、一冊の書物に表して、ダンテは何ものかの回復を夢みたのかもしれない。
 「神曲」では、人生の多くの時間を善行によって生きた人間も、罪ある一事を赦されはしない。総合的な人格が問われることはないのである。だから他者(神)の掟は常に無慈悲であると言っても良い。道徳の依って立つべき根拠も個人を超越した他者(神)にあり、そうした他者(神)が人生を横切った一瞬の切り口によって、人は、

自身が何者であったかを知らされるのかもしれない。
 「神曲」第五歌は有名なパオロとフランチェスカの項。アーサー王の円卓の騎士ランスロットの物語を読んでいたふたりが「その日私どもはもう先を読みませんでした」(平川訳,河出書房新社)とダンテに語る時、フランチェスカは地獄の業風に吹きあおられ続ける定めを事実として受け入れ、そこを永久に漂うしかない命運を確信している。心を打たれて倒れ伏すダンテの思いは、「神曲」の物語の展開においては剰余物に過ぎないが、その剰余物こそが、満たすべき欠如の存在を私たちに伝えている。「神曲」は天国篇に至ってベアトリーチェの霊に従いダンテを至高天にのぼらせる。
by びれいぽいんと店主

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