建久6年9月、天台座主慈円は、仏法修学の志を鼓舞すべく比叡山の大乗院に勧学講を設置した。その講師として、23歳の親鸞が「小止観」と「往生要集」を講じている(正明伝、巻1)。 若き親鸞は優れた堂僧として認められ、慈円の信頼も深かったのである。しかしその身分を捨てて親鸞は遁世し、当時は異端とも言うべき専修念仏の法然の下へ去った。親鸞29歳の事である。
 遁世を動機づけた事件がある。正治2年親鸞28歳の折、師慈円は自身の恋の歌の見事さ故に女犯の嫌疑をかけられた。新古今の勅撰を進める後鳥羽院の朝廷は、反幕府派と親幕府派の権謀術数の渦巻く世界であって、近世の茶の湯がそうであったように、和歌の世界も更には顕密仏教の階梯社会も、多分に政治的利害得失に浸された世界だったのである。親鸞は慈円の使者として僧には

経験のない鷹狩の歌を提出し、自身も命ぜられて「鷹羽雪」の歌を詠んだ。言語の力で「恋」を自在に表現し得る事を示し、慈円の嫌疑を晴らす役割を果したである。
 しかしその時、親鸞は自身の問題として、むしろ深く内的に、嫌疑の教義的本質を浴びたのではなかったか。自力聖道門の限界に触れる苦悩の淵から、親鸞は遁世を選択し、それがその後の実践へと帰結したのである。
 では果して、親鸞は往生し得たのか? 親鸞に寄り添った恵信尼が、娘の覚信尼の疑念に答えるかのように記した「恵信尼消息」において、私たちは「信」を賭して生きた親鸞の精神の在処に、幽かに触れる事ができる。

by びれいぽいんと店主

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