フィレンツェからはfrecciarossaでローマに入った。
テヴェレ川からの裏通りを歩いてパラッツォ・スパーダを訪ね、加速化された遠近法的「驚異」、即ちボッロミーニの列柱廊の前に立った。プラトンが疑念を呈し、ウィトルーウィウスがその建築書に「視覚は必ずしも真実に作用するのではなく」「実在するものとは別のものが眼によって実証される」(森田慶一訳)とも書いた「自然」の奥行きの表現技法を、アルベルティは「描こうとするものを通して見るための開いた窓」(「絵画論」三輪福松訳)から展開する視的ピラミッドにより精緻化した。そのルネサンスの遠近法を建築の側から共犯関係に陥れて、ひとつのバロック的「驚異」が出現したのである。
 バロックが「生まれつつある必然的な現実を最も適切に表すために世界と人間とを形而上学的・科学的・美学的に表現しようとする意志」(アンヌ=ロール・アングル

ヴァン「バロックの精神」秋山訳)である時、バロックはその非明示的意志によりキリスト教に与したと言える。ルーベンスが「反宗教改革の勝ち誇るイメージである官能的で劇的で人の目を引きつける神秘主義的な作品の巨匠」(同)となったように。ところで、ジャン・ルーセは「フランスバロック期の文学」に、バロックの建築では「構造はもはや飾りと装飾の支えとしか存在しなくなる。この逆転に伴って色々な結果がおこる」(筑摩叢書)と書いた。そうした逆転をスパーダ枢機卿は、ファサードによってではなく内部に穿った洞窟(=列柱廊)の付加により表現した。本来的自然は観念としてしか存在せず、画家が描く現実の自然は「原罪」が偏在する虚偽の空間である事の象徴であると。byびれいぽいんと店主

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