山崎・天王山の戦で秀吉が明智光秀を破った後、利休は 山崎に2畳の茶室(移築前の待庵)を作った。 その2畳へのこだわりを、宗及と光秀がすでに3畳茶室による茶会を行っていた記録(山上宗二記)を踏まえ、 秀吉自身の意志と見る説がある。秀吉と利休は俗物対芸術家の図式で捉えられがちだが、堺を制圧した信長の茶堂となり、やがては秀吉の側近としての地位を確立する利休の野心と、秀吉の茶の湯への関心を、より正当に評価してこそ、「待庵」の存在はリアルに見えてくる。
 「待庵」とは何だったのか?利休は「待庵」以降も、当時の茶人に一般的な4畳半の茶室を使用しており、 極小空間に美的必然を求めた訳ではない。一方、秀吉は大坂城山里に2畳茶室を作らせ、その席開き(天正12年正月3日)に、秀吉と利休は宗及ひとりを招いている。

聚楽第の小間も含め利休の2畳はすべて秀吉の影響下にあったと言えるが、後に利休の孫の宗旦は、自身の一畳大目に利休の侘びと極小空間への遺志を偲ぶ事になる。
 「待庵」の前衛性は、しかし古田織部や小堀遠州らにおいて武家の日常のなかに見失われ、やがては 「〇〇好み」と言われる趣味化と作法化(茶道化)の道へと頽落していく。「鎖の間」を設ける織部の茶会は 「一日ニ座ヲカヘテノ飾所作」を厳しく戒めた利休を忘れた行為であったし、また遠州は、利休が対立的に捉えた書院造と茶室を融合させ、数寄屋造の成立を促した。鬼気迫る「待庵」の緊迫感、一期一会の 宿命的な時間の凝縮、かかる歴史的前衛としての席からの退出が、徳川の世で、静かに進行したのである。 by びれいぽいんと店主

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