今年はワーグナー生誕200年になります。初めて私がワーグナーの公演に接したのは1974年のバイエルン国立歌劇場日本公演の「ワルキューレ」でした。その後「ニーベルングの指輪」の2度の日本公演も実現します。私はバブル後の日本経済が重く影を落とす東京で多くのワーグナーの舞台に出会えた状況を訝りながらも、東京文化会館やNHKホールに足を運んでいました。
 「帰依と認識とを合わせたもの、これが情熱(パッション)である」とトーマス・マンは「非政治的人間の考察」で語っています。そのパッションの、峻厳さと官能性を、音楽において私に明確に意識させたのが、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」でありました。
 大学に進学した頃、新しくEMIがリリースしたカラヤンのトリスタンを入手し、その第三幕への前奏曲を耳に

した時、私はそれまでとは質を異にするワーグナーに出会った事を理解しました。勇壮さや悲劇性を告知するオーケストラの響きは、カラヤンでは内面化されて、音楽言語の意味作用により、必然としての苦悩と官能が意識の内部から抉り出されるかのように表出されます。それは日常的価値観が無効になる場所から、根源的な問いを投げかけてくる、 個人的な体験の音楽でありました。
 教養主義的な良識と品位を重んじる人々が、ワーグナーを必ずしも好意的に受容しなかった本質的な理由も理解できます。ワーグナーの純粋さとは、ボードレールや象徴派の芸術家が喝采した、不可能な生を志向する意志であって、媚薬とも毒薬とも言うべき作用を潜在させた音楽だったのですから。 by びれいぽいんと店主

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