能舞台は異界を現世に導いて、現実には存在し得ない真実を私たちに見せる装置でもある。殊に夢幻能では、揚幕が上がって橋懸りを行く後ジテは、時空を超えて現れるべき何ものかの到来そのものとなる。一方、「弱法師」のような現在能では、シテが開示する真実は、ワキを通じて実在世界へ向けられ、現世的な帰着をみる。
 「弱法師」は世阿弥の息子、観世元雅の作と伝えられる(世阿弥自筆本や説教節との異同はここでは措く)が、
「弱法師」と呼ばれ乞食同然の境遇を生きる俊徳丸(シテ)が、四天王寺に伝わる日想観(西方日没を見て極楽浄土を観想する)を、盲目ならばこその幻視をもって体現する時、そのリアリティを担保するのは梅の香を想起する過程で共有された「花」の香の生々しさであった。
俊徳丸が「花の香の聞え候」と言うのを、通俊(ワキ)が

「梅の花」と言い直し、それを俊徳丸が、「ただ木の花とこそ仰せあるべきに」と咎める場面。その時、絶望の果ての境地から、普遍的な次元で感じとられた「花」が幻視の日想観の真実性に通底する。
 やがて俊徳丸は、実の父であった道俊と故郷へ帰る。
その道行きは表面的には救済でありながら、俊徳丸が生きた真実の、日常的時間への頽落の必然を予感させる。
三島由紀夫は「弱法師」を翻案した戯曲(近代能楽集所収)を家庭裁判所の一室における調停の場面として描いた。俊徳丸が帰着するべき現世的日常において、「弱法師」を存在せしめた真実の力が、遂には唯の個性へと貶められて受容される様を、三島の慧眼はシニカルなタッチで作品化している。 by びれいぽいんと店主

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